モスマンの呪い
1966年から1967年にかけて、ウエストヴァージニア州のポイントプレザントを中心とするオハイオ渓谷一帯で、奇怪な事件が発生した。
「TNTエリア」(第2次世界大戦当時、爆弾集積場だったためにこの名前がついた)の近辺で、褐色もしくは灰色の毛に覆われた空飛ぶ怪物の目撃が多発したのである。
モスマンの特徴
怪物の体長は約2メートル、全身を褐色もしくは灰色の毛で覆われ、ギラギラ輝く赤い目をもち、鳥のように翼を広げて飛ぶが、決してはばたかない。
人々は、この奇怪な生物をその外見からモスマン蛾人間と呼んだ。
このモスマン事件は、あまたある怪事件の中でも、特異な光彩を放っている。
というのも、事件は結局、未解決で目撃談こそ終わったものの、事件後、関係者たちに次々と災厄と死をもたらし、モスマンの呪い伝説が始まったからだ。
モスマンの呪いの起源
その発端となったのが、モスマン騒動のさなかに起こった橋の崩落事故だ。
実は、この事故をあらかじめ知っていた人物がいた。メアリ・ハイアーである。
彼女は、オハイオ州アセアンズの新聞『ザ・メッセンジャー』のポイント・プレザント在通信員で、モスマン事件の調査のため、現地を訪れた著名な超常現象研究家ジョンA・キールとともに、情報の収集と調査にあたっていた。
1967年の真夜中、メアリはキールと車で走行中、丘の上空を移動していくUFOを目撃。
その日、帰宅したメアリは奇妙に鮮明な、しかし不吉な夢を見たのだ。
「大勢の人が川で溺れていて、クリスマス。プレゼントの箱が散乱して浮かんでいるの。怖かった。何か恐ろしいことが起こりそうな気がして、私、なんだか落ち着かない」翌朝、メアリーは、夢の内容をキールに告げた。
彼女はこれまでもオハイオ川での水死事故事件などを数多く取材してきたが、夢の様子はそれとは異なっていたという。
そして人聞が溺れてパニックを起こす様子はと不安気に語ったのだ。
同年5日、メアリの不吉な夢が現実となった。
午後5時4分15分ごろ、ポイント・プレザントとオハイオ州を結ぶシルバーブリッジは、帰宅ブッシュの車で込み合っていた。
すると、何の前触れもなく、橋が崩れ落ちたのだ。命を失った犠牲者の数は、実に必名におよぶ。
遺体が収容されたが、現在でも2体が未回収のままである。
モスマン騒動後、目撃者が離婚したり、神経衰弱に陥って長期療養を余儀なくされた者や、モスマンを目撃してから半年以内に亡くなっている者が出始める。
モスマン事件に深く関わったあのメアリー・ハイア女史の周辺でも、謎の怪光が自宅の上空に現れて、裏庭に強烈な光線を発射したり、町で黒塗りの車に接近されて、中に乗った黒服の男に突然、写真を撮られたりしていた。
そのメアリーも1970年2月に、突然体調を崩し、急逝している。
モスマンの呪いは映画にも
200l年、リチャlド・ギアが主演したスリラー映画「プロフエシー」は、モスマンに関する出来事をべースにしたストーリーで話題を呼んだが、この映画の音楽監督をはじめ、プロデューサー、役者など、関係者が次々と事故や急病で亡くなってしまったのだ。
これで、モスマン事件に関わって死んだといわれる人間の数は実に、現在すでに剖人を越えているという。
「モスマンに関係する人々の人生は大きく変わるだろう」この映画の原作者である、ジョン・キールが1975年の自著に残した言葉は、まるでその後の連続怪死事件を予測していたかのようだった。
この時点で、キールはすでに多くのモスマン関係者が不幸になったり命を落としていた事実を知っていたが、著書の中では深く言及していない。ただし、このモスマン事件には、ある巨大な超自然的力が働いていることを、ほのめかしている。
関係者の死が多すぎる
それにしても、関係者の死は、その数の多さからしても、単なる偶然ではすまされない因縁めいたものを感じさせる。そとには、もしかしたらキールのいうように、超自然的力モスマンの呪いが働いていたのかもしれない。
2002年1月比日、ジョン・キール死亡説が、インターネット上を駆けめぐった。もちろん誤報であった。そのキールだが、2006年突然の心臓発作に見舞われ、危篤状態に陥った。だが、その後、奇跡的に快方に向かったということだ。
謎の未確認飛行生物モスマンは、いまだに目に見えない形で影響力を及ぼしつつけているのだろうか。
モスマンのその後
そのモスマンだが最新の目撃情報がカリフォルニア州ロマ・リンダから伝えられた。2007年2月同地区のサウスヒルで、人聞大の怪物が空中から螺旋を描きながら急降下し住宅地へと消えていったという。
怪物は、通行中の人々に目撃されており、その姿・形から、「あれはモスマンかもしれない」と噂されているそうだ。